洞海湾は魚がいない「死の海」だった

 若戸渡船や若戸大橋の上から見る洞海湾は、青いきれいな海で、岸壁から魚釣りをする人を見ることもあるよね。明治時代の初めごろまでは、車エビがたくさん獲れる海として有名だったらしいよ。でも今から50~60年ほど昔、君たちのおじいさんやおばあさんが若者だった頃は、魚が全然いない汚い海だったんだ。なぜかというと、その頃は戸畑や八幡など洞海湾の周りのたくさんの工場から汚い水が次々と洞海湾に流れ込んでいたんだ。人口も急増していて、家庭の排水も流されていたんだよ。そのため魚はもちろん海藻や微生物も生きられない「日本一汚い海」になってしまったんだ。生き物がいないという意味で「死の海」といううれしくないニックネームを付けられたんだよ。洞海湾を行き来する船のスクリューがボロボロになるほどだったらしい。 

 そんな汚い海の近くには住みたくないよね。市民からの要求もあって、なんとかきれいな海にしようと、市役所や工場が改善に乗り出したんだ。工場では、使った水をきれいにする装置を作ったり、市役所も下水道を整備したりしたおかげで、しだいに魚たちも戻ってきたんだよ。「もう二度と魚がすむことはないだろう」と言われるほど汚かった海が、びっくりするほどきれいになったことに日本中、世界中の人が驚き、今では海外から北九州市の技術を学びに来る人達がいるほどにまでなったんだ。 

 そうしたみんなの努力で、車エビはもちろんいろんな魚や水鳥も戻ってきた洞海湾。二度と「死の海」なんて呼ばれないようにみんなで守っていかなきゃね。洞海湾が一番汚れていた頃のことや、それからの努力の歴史は、環境ミュージアムの第2ゾーンで学べるよ。